『長崎乱楽坂』
『長崎乱楽坂』
続けて読んでしまいました、今回もまた吉田修一です。
吉田修一さんは、インタビューなどで、自分の作品を「毎回別人が書いていると思わせたい」と語っているそうです。
今まで私が読んだ吉田修一の作品は、確かにスタイルや題材は異なりましたが、なんとなく吉田修一のシャープな世界観が感じられるという点で共通していました。
それに対して本作品は、私が今までに読んだ吉田修一の作品の中で最も吉田修一らしくないと言えると思います。
確かに、だらしなくてもやもやしている主人公は共通項だと言えますが、
文体とかセッティングとか、他の作品とは全く異なります。
でもやっぱりなんだか引き込まれてしまって、気づいたら読み終わっていました。
読み終わってからふりかえってみると、吉田修一らしく、かなりシンボリックな内容になっている感じがします。
まず、この作品は長崎のとあるやくざ一家の栄枯盛衰を描いています。
主人公の駿が幼かったころの三村家といえば、若い男の人が毎日わいわい宴会を開いていて、とても賑わっていましたが、
作品の終盤にはもはやおばあさんと主人公と弟の三人だけがかつて大盛り上がりだった家に暮らしています。
All good things must come to an end. (全ての良いことには終わりが来る)
この作品を通して、そんなメッセージが伝わってくる気がします。
また、この作品には「離れ」という一種の隠れ家が登場します。
三村家の男たちは、この離れで現実逃避をしてきました。
やくざ一家に生まれてしまったが故の社会からの冷たいまなざしや組内での責任など、
三村家の男たちは多くの悩みや辛さを抱えていました。
中でも首つり自殺をした哲也は、他の男たちとは違って、この離れで絵を描き続けます。
窮屈な三村家の男社会や地域社会から逃れるため、主人公の駿を含め、多くの男たちがこの離れを使って、日常生活を忘れようとしてきたのです。
そして最後に、早く逃げ出そうと思うものほど離れられないと言うパラドックスも描かれていると思います。
哲也は離れで首をつって自殺をしますが、彼の霊はいつまでも離れに残ったままです。
また、駿も早く家を出ようとがんばってバイトをしますが、結局諦めて留まることを選択します。
この哲也という男には、主人公の駿と重ねて見えるところがいくつかあります。
駿は幼いころから、自殺したおじさんが自分の父親ではないことをなぜか何度も祖母に確認しようとします。
また、駿はいつしか哲也のように離れにこもってやくざの絵を描くようになります。
この重複から、駿も生きてはいるけど哲也のようにずっと離れに居続けるのではないか、という推測が出来ると思います。
逆に、ずっと家族の人に甘えて育った駿の弟の悠太の方が先に家を出て、自立します。
最後に火事があることは、ようやく三村家の新陳代謝が終了し、
栄枯盛衰のサイクルが終了したことを示しているように思えます。
駿が新たに迎え入れる青年は、次の新たな栄枯盛衰のサイクルの始まりを意味していると感じました。
このように私たちの人生は若干重複しながらも、栄枯盛衰のサイクルを繰り返して、
続いていくということが最後のシーンを通して示唆されていると感じました。