『ランドマーク』
『ランドマーク』
吉田修一読破シリーズ続いてます。
吉田修一の作品はどれもシンボルが多いし現代作家としてはとても文学的だというお話は何度もしていますが、
今回読んだ『ランドマーク』は、私が今までに読んだ吉田修一作品の中で最も難しい作品だと感じました。
でてくる場面はとても日常的なのですが、
きっと何か深い意味があるんだろうけど、完全に理解しきれないシンボルが色々出てくるのです。
その中でも今日は2点、特に象徴的だったと思った部分について書きます。
まず一つ目が、タイトルにもあるランドマーク。
これはおそらく作品の中に出てくるO-miyaスパイラルのことでしょう。
この建物の特徴は、「重箱を少しずつずらして積み上げたような」構造になっていることです。
この外から見たらゆがんでいる感じが、この作品に登場する人物にも共通していると言えるでしょう。
この作品がなぜこんなに不思議に感じられるかというと、それはその登場人物の行動が本当に意味不明で、解説が一切ないからです。
例えば、
貞操帯を付けている若い男
家のコンクリートの壁にオンラインショッピングで買った毛皮を貼りつける妻
など、本当に謎なのです。
でもきっとその一見変な行動をとっている本人には何らかの理屈があって、
本人の中ではその行動にはしっかりとした意味があるのでしょう。
O-miyaスパイラルは、こういった登場人物の日常的な葛藤を象徴するランドマークなのではないでしょうか。
そして2点目。それはO-miyaスパイラルの工事現場で働く貞操帯男が一個ずつスパイラルの階に埋め込む貞操帯の鍵についてです。
貞操帯を付けていること自体謎なのに、更にそれを開けるための鍵を大量に作ってもらって、一個ずつ埋め込んでいくとか意味が分かりません。
出来あがったランドマークタワーの中には、自分の貞操帯を開ける鍵が30個も埋め込まれる。こんなに目立つ建物の中に入っているのに、そのことにきっと誰も気付かない。
一種の『檸檬』的な衝動が感じられる気がします。
貞操帯に誰も気が付いてくれないこと、こっそり忍ばせた鍵に誰も気が付いてくれないことに対して貞操帯男は少し寂しい気持ちを抱きます。
みんな辛いこと・悲しいことを抱えているのに、周りの人は自分が思っているほど自分のことは気にかけてくれない。
心の叫びに気づいて欲しくて、ちょっとひねくれた(ねじれた)行動に出てみる。
あまり派手なことをすると崩壊してしまうので、予防線を張ってちょっと変なことをする。
そういう人間の複雑で意味不明な心理が描かれていると私は捉えました。
『長崎乱楽坂』
『長崎乱楽坂』
続けて読んでしまいました、今回もまた吉田修一です。
吉田修一さんは、インタビューなどで、自分の作品を「毎回別人が書いていると思わせたい」と語っているそうです。
今まで私が読んだ吉田修一の作品は、確かにスタイルや題材は異なりましたが、なんとなく吉田修一のシャープな世界観が感じられるという点で共通していました。
それに対して本作品は、私が今までに読んだ吉田修一の作品の中で最も吉田修一らしくないと言えると思います。
確かに、だらしなくてもやもやしている主人公は共通項だと言えますが、
文体とかセッティングとか、他の作品とは全く異なります。
でもやっぱりなんだか引き込まれてしまって、気づいたら読み終わっていました。
読み終わってからふりかえってみると、吉田修一らしく、かなりシンボリックな内容になっている感じがします。
まず、この作品は長崎のとあるやくざ一家の栄枯盛衰を描いています。
主人公の駿が幼かったころの三村家といえば、若い男の人が毎日わいわい宴会を開いていて、とても賑わっていましたが、
作品の終盤にはもはやおばあさんと主人公と弟の三人だけがかつて大盛り上がりだった家に暮らしています。
All good things must come to an end. (全ての良いことには終わりが来る)
この作品を通して、そんなメッセージが伝わってくる気がします。
また、この作品には「離れ」という一種の隠れ家が登場します。
三村家の男たちは、この離れで現実逃避をしてきました。
やくざ一家に生まれてしまったが故の社会からの冷たいまなざしや組内での責任など、
三村家の男たちは多くの悩みや辛さを抱えていました。
中でも首つり自殺をした哲也は、他の男たちとは違って、この離れで絵を描き続けます。
窮屈な三村家の男社会や地域社会から逃れるため、主人公の駿を含め、多くの男たちがこの離れを使って、日常生活を忘れようとしてきたのです。
そして最後に、早く逃げ出そうと思うものほど離れられないと言うパラドックスも描かれていると思います。
哲也は離れで首をつって自殺をしますが、彼の霊はいつまでも離れに残ったままです。
また、駿も早く家を出ようとがんばってバイトをしますが、結局諦めて留まることを選択します。
この哲也という男には、主人公の駿と重ねて見えるところがいくつかあります。
駿は幼いころから、自殺したおじさんが自分の父親ではないことをなぜか何度も祖母に確認しようとします。
また、駿はいつしか哲也のように離れにこもってやくざの絵を描くようになります。
この重複から、駿も生きてはいるけど哲也のようにずっと離れに居続けるのではないか、という推測が出来ると思います。
逆に、ずっと家族の人に甘えて育った駿の弟の悠太の方が先に家を出て、自立します。
最後に火事があることは、ようやく三村家の新陳代謝が終了し、
栄枯盛衰のサイクルが終了したことを示しているように思えます。
駿が新たに迎え入れる青年は、次の新たな栄枯盛衰のサイクルの始まりを意味していると感じました。
このように私たちの人生は若干重複しながらも、栄枯盛衰のサイクルを繰り返して、
続いていくということが最後のシーンを通して示唆されていると感じました。
『あの空の下で』
『あの空の下で』
吉田修一にはまりすぎて、また一冊読んでしまいました。
吉田修一の作品を一冊読むたびに、次もまた吉田修一が読みたくなるのが、少し不思議です。
今回の作品は、ANAの機内誌で連載されていた短編やエッセイを文庫本にしたものです。
今回の作品の特徴は、どれも旅がテーマになっていることと、吉田修一のエッセイを初めて読んだということです。
まず、旅というテーマから。
もし機内誌にこの連載があったら、もし飛行機の中でどこかに出かける前にこの連載が読めたら、きっと魅力が増すんだろうなぁー、と思いながら読んでいました。
私が思うに、吉田修一の作品の特徴は、日常生活の中の何でもない瞬間に意味を持たせて、美しく書きあげるということです。
その意味で、今回の旅というテーマは、いわば非日常的なので、一見いつもの吉田修一の作品とは異なるテーマです。
しかし主人公たちの非日常に対するわくわく・そわそわした気持の描き方や、
旅の中でもほっとするような「普通」な光景に重みを持たせる感じは、
やっぱりさすがでした。
そして、今回私は初めて吉田修一のエッセイを読みました。
本の後半に出てくる、旅の記録だったのですが、これもまた素敵でした。
個人的には短編より好きでした。
吉田修一が世界中の色んな都市に行って、見たもの・感じたことを素直に書いている感じがまた、
美しかったです。
読んでいると今すぐにでも旅に出たくなるような、そんな不思議な一冊です。
『生き方』
『生き方』
稲盛さんは、私が最も尊敬する人の一人です。
彼の人生及び経営の哲学は、きわめてシンプルで、端的に言うと、毎日昨日より少しずつ成長するということです。
そして彼は、小学校で習うような倫理や道徳を企業経営に応用して、
個人としてやってはならないことは、企業としてもやらないというポリシーで今まで成功を納めてこられました。
稲盛さんは、「生き方」とはつまり、仕事をして魂の次元を挙げることだと説いています。
人生とは肉体が生きていることであり、肉体が死んでからも魂は生き続けるので、
いかに生きている間に心を豊かにできることが重要だと言うことです。
そしてそうするためには仕事が一番だと。
仕事を通して得られる達成感や生きている実感が、この世のどんな娯楽よりもすばらしいと、本の中に書いています。
当たり前のことを、当たり前のようにする。
とても簡単に見えますが、実はこれが一番難しいのかもしれません。
日々反省を行い、ストイックに生きながら、人として最低限の倫理や道徳を実践していきたいです。
稲盛さんの本は、以前にも読んだことがありましたが、
かなり仏教的な発想が多い印象です。
彼自身修行などもされているようで、本当に信仰心の強い方のようです。
そのため、ちょっと宗教がらみのことは苦手、という方にはちょっと胡散臭い印象を与えるかもしれません。
でも、仏教でない人でも、十分納得して、意識の改革ができる一冊だと私は思います。
落ち込んだ時や自分の行為に反省した時、
ちょいちょい読みなおしたくなるような、そんな一冊です。
『千の輝く太陽 (A Thousand Splendid Suns)』
『千の輝く太陽 (A Thousand Splendid Suns)』
カーレッド・ホッセイニ
カーレッド・ホッセイニは、私が世界で一番好きな本である『カイト・ランナー』の作者です。
本作品もずっと前から気になっていたのですが、かなり描写が過激だと言う評判を聞いていたので、怖くてなかなか手に取れませんでした。しかし最近『カイト・ランナー』の映画版、「君のためなら千回でも」を見てあまりに感動したので今度こそ挑戦しようと思いました。
描写は、想定通り、かなり過激でした;;
主にDVや児童虐待、タリバン政権による女性の弾圧についてがとても細かく書かれているので、ちょっと読むのが大変な部分もありました。
この作品の中では、社会での女性の立場が最大のテーマになっている気がします。
確かにタリバン政権下のアフガニスタンほど、女性の立場が弱い社会はないかもしれませんが(女性は一人で外出することが出来ない、働くことが出来ない etc.)ある意味女性の抑圧は今もなおどの社会の中でも続いています。
女性が社会によって抑圧されること(家に閉じ込められること、ブルカの着用を求められること etc.)は女性の視野を狭めますが、
女性の情熱や思考力、自由な発想力までもを弾圧することはできません。
そのことが、本作品の中で女性たちが家から脱出し、アフガニスタンの女性たちがブルカから解放されることによって象徴されていると思います。
そして『カイト・ランナー』と同様、この本も償いが1つのテーマになっています。
非嫡出子として生まれてしまった娘とその母親の社会への償い、
娘を堂々と愛せなかった父親の償い、
そして大罪を犯してしまった女性の償い。
タリバン政権が制定した、罪に対する刑罰(一種の償い)のリストも、読んでいてぞっとします。
「目には目を」とか言いますが、実際一度犯した罪を償うことは、その罪以上の償いを伴うと言う現実が突きつけられている気がします。
エンディングはハッピーエンドと言えばハッピーエンドですが、
ちょっと後味が悪いです・・・
この終わり方が、人生というか現実を反映しているような気がしました。
つまり、みんながみんな幸せになれるものではない。残念なことだけど、これが現実なのだ、と。
『カイト・ランナー』も本作品も、私は大好きです。
読むと心が一度強制的に浄化される感じです。どちらも悲しいですが、本当に美しい作品です。
本を読まなくても映画を見るだけでホッセイニの世界観に触れることが出来るでしょう。
アフガニスタンにいつか平和が訪れた時、
是非この作品と『カイト・ランナー』の聖地巡礼を実現したいと思います。
『さよならサイレント・ネイビー』
『さよならサイレント・ネイビー』
伊東乾
この本の著者は、1995年に起きた地下鉄サリン事件の実行犯である豊田亨死刑囚の大学の同級生だった。
とても優秀でまじめで、関西弁で冗談をいつも言っていたような豊田死刑囚が、
なぜ突然出家し、最終的にこの事件に関わってしまったのか。
伊東は、「オウムは日本そのものだよ」と主張する。
つまり、日本の社会、教育、マスコミが豊田のような優秀な若者をオウム真理教に救いを求めさせてしまった。
オウムのオーディオ・ビジュアルあるいは覚せい剤を使ったマインドコントロールの手法の危険にさらされていない者はいない。
どれも科学的・専門的に検証され、人間の行動や思想を操る上で効果があると分かっているものばかりだからだ。
「オウムみたいな怪しい宗教に騙されるの一部のちょっと変わったエリート層の人だけ」と特に最近思っている人が多いかもしれないが、
現に豊田死刑囚のような優秀で真面目な人間が出家してしまっているではないか。
だから、伊東はこのようなこと、
つまり豊田のような優秀な若者が宗教団体に「拉致」されること、
地下鉄サリン事件のような事件、
あるいはオウムのような悪質な宗教団体のあり方自体
が二度と繰り返されないようにする必要があると強く訴えている。
タイトルにある「サイレント・ネイビー」とは、「黙って責任を取る」海軍のイデオロギーのことである。
豊田死刑囚はサリン事件について多くは語らず、真摯に自分の罪と罰を受け入れようとする。
しかし、これでいいのかと伊東は疑問を豊田及び日本社会に対して投げかける。
今回のサリン事件に限らず、第二次世界大戦や特攻隊についても言えることだが、
日本では必ず誰かが「黙って責任を取ろう」とするからこそ、
何も変わってきていないのではないか。
もし本当に日本を変えたいのであれば、
もっと細かいところまで色々話して、
再発防止に向けて社会全体が努めるべきではないか。
だから、『さよなら、サイレント・ネイビー』なのだ。
この本は一見著者から見た同級生の描写、地下鉄サリン事件やオウム真理教についてのノンフィクションだが、
実際はこのような強いメッセージを豊田及び日本社会に対して発信しているのだ。
『まほろ駅前多田便利軒』
『まほろ駅前多田便利軒』
私が読んだ三浦しをんの作品は『舟を編む』に続いて2つ目です。
どちらの作品も珍しい職業(辞書の編集者、便利屋)を取扱い、
ちょっと変わった登場人物たちの日常生活を絶妙にユーモアを交えて書いているところが気に入りました。
さて、本作品で主人公は「便利屋」を営んでいます。
この本を読んで、どれくらい本当かは分かりませんが、かなりめちゃくちゃなことを便利屋さんに押し付ける人がいるんだなぁー、とまず思いました。
個人的に依頼をしたこともなければ知り合いにこのようなお仕事をしている人がいないので、
実際はどうなのかは分かりませんが、この多田便利軒の特徴は、
ただ依頼された仕事を処理するだけでなく、
世の中をもっとよくしていこうと色んな人のつながりや人の幸福についてかなり考えて、ちゃんと仕事後依頼人の人生のフォローをしているところです。
その点、便利屋さんに仕事を依頼している人々は、目先のめんどくさい仕事だけでなく、色んな人間関係や日常生活のうちめんどくさいと思っている部分も知らないうちに便利屋さんに押し付けていると言えるのではないでしょうか。
この本を読んでいて、私は人間関係の薄っぺらさを何度も感じました。
ずっと一緒にいてもお互いのことをあまり知らない、
親しい人・信頼できる人に頼めるような仕事を見ず知らずの業者の人に外注する・・・
現代社会の弊害というか、まぁ最近ではよくあるような話なのでしょうが、
周りの本当は親しいはずの人間よりお金で雇っている人の方が自分のこと、家族のことを気にかけてくれるって、ちょっと寂しいですよね。
そしてこの本の最大のテーマは、「幸福は再生する」ということです。
便利屋さんは、上に述べたように、社会におけるこの幸福の循環を促す仕事をある意味でしています。
しかし、よく見ると多田自身、自分の人生の思い出したくないこと、めんどくさいことをいつまでも引きずり、ちゃんと後始末できていません。
でも自分の気持ちの整理を付けて、他の人の助けになろうと努力をすることで、
知らぬ間に「幸福は再生する」のです。
面白おかしく書いてある本なのですが、ところどころ深いセリフもあるので、
油断できない一冊です。